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第1話 冷たい朝の公爵夫人⑦

作者: なつめ
last update publish date: 2026-06-24 15:09:11

「お前の体調は、申し上げるほどのことだ」

 その言葉に、胸の奥がひどく痛んだ。

 そうなのだろうか。そうであってほしかった。ずっと。最初から。

「……でしたら」

 唇が、勝手に動く。

「少しだけ、そうとわかるようにしていただけたら、嬉しかったです」

 言ってしまった瞬間、部屋の空気が止まった気がした。

 リュゼリアは自分でも驚いていた。こんなことを口にするつもりではなかった。ただ黙って、やり過ごすつもりだった。いつも通りに。

 だが、疲れと不安と、たった今向けられた幾つかの言葉が、心の薄皮を剥がしてしまったのだろう。

 ヴィルレオの瞳が、ごくわずかに揺れた。

「……どういう意味だ」

 問い返す声が低い。怒っているわけではない。けれど、その底にあるものを読み取るには、リュゼリアはもう少し元気であるべきだった。

 彼女は首を振った。

「申し訳ありません。忘れてください」

「忘れろと言われて忘れられる言い方ではない」

「でも」

「リュゼリア」

 初めてだった。

 彼がこんなふうに、呼びかけるためだけに彼女の名を口にしたのは。

 いつもなら必要事項の中でしか呼ばれない名前が、たったそれだけで胸の奥に落ちてくる。あまりにも今さらで、あまりにも鋭い。

 リュゼリアは目を伏せたまま、小さく息を吸った。

「……わたくしは、旦那様のお役に立てればそれでよいと思ってまいりました」

 声が掠れそうになり、唇を湿らせる。

「公爵夫人として恥じぬように。屋敷に不備がないように。お客様をお迎えし、使用人たちをまとめ、旦那様のお手を煩わせぬように。それが妻として当然の務めですから」

 ヴィルレオは黙って聞いていた。

「でも、ときどき……本当にときどきで結構でしたの。今日のように、顔色を見てくださるとか。食事の席で、ほんの少しだけでも、お話ししてくださるとか。そういうことが、あれば」

 そこまで言って、リュゼリアは唇を噛んだ。

 これではまるで、愛情をねだる子どもだ。

 情けない。みっともない。三年もかけて呑み込んできた言葉を、こんな形で漏らしてしまうなんて。

「……失礼を申しました。具合が悪いせいで、余計なことを」

「余計なことではない」

 ヴィルレオの声が、ひどく近くなった。

 顔を上げると、彼が寝台のすぐそばまで来ていた。長い影がシーツに落ちる。彼の表情は薄暗がりで読み切れない。ただ、いつもより口元が固く結ばれているのがわかった。

「俺は」

 彼は何かを言いかけ、そして言葉を失ったように沈黙した。

 リュゼリアはその沈黙が何よりつらかった。期待してしまうからだ。何か、これまでと違う言葉が来るのではないかと。来ないとわかっていても。

 結局、ヴィルレオが口にしたのは、別の言葉だった。

「今日は休め。話は、その後だ」

 それは逃避なのか、彼なりの猶予なのか、彼女にはわからない。

 けれど、これ以上何かを言われても、今の自分は耐えられなかったかもしれない。だからリュゼリアは静かに頷いた。

「はい」

 ヴィルレオはしばらくその場にいた。何かを見守るように、あるいは何かを言いそびれた男のように。やがてアイダが戻ってくる足音が廊下に近づくと、彼は一歩下がり、いつもの当主の顔へ戻っていった。

「必要なものは手配させる」

「ありがとうございます」

「ああ」

 そのまま彼は部屋を出ていく。扉が閉まる直前、ほんの一瞬だけ振り返ったように見えたのは、薄暗さのせいだったかもしれない。

 アイダが薬湯を運んでくる。苦い香りが部屋に広がった。

「旦那様は何と?」

「休めと」

 リュゼリアは小さく笑った。

「それだけよ」

 それだけ。

 なのにどうして、胸の奥がこんなに痛むのだろう。

 薬湯を飲み終え、横になる。重たいまぶたを閉じると、暗闇のなかに今日一日の断片が浮かんだ。空の寝台。朝食の席。顔色が悪い、という声。白いハンカチの赤。迷惑ではない、という短い言葉。そして最後に、低く呼ばれた自分の名。

 どれもこれも、些細なことだ。

 些細なことなのに、ひとつひとつが胸に刺さったまま抜けない。

 明日になれば、またいつもの朝が来るのだろうか。

 冷たい廊下、整った食卓、遠い夫、完璧な公爵夫人。

 そうであってほしいような、そうではいけないような、不思議な恐れが胸の底で揺れていた。

 まどろみに落ちる直前、リュゼリアは最後にひとつだけ考えた。

 もし、わたくしが本当に壊れはじめているのだとしたら。

 それを最初に知るのは、誰なのだろう。

 自分か。医師か。アイダか。

 それとも。

 今日、初めてほんの少しだけこちらを見た、あの冷たい人なのだろうか。

リュゼリアは静かに笑った。

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